これは、アピシット党首等民主党陣営によるサマック首相の流血の惨事への関与や過去のクーデター政権への参画に関する質問の一貫として同党首側が、1976年10月6日の流血の惨事後に成立したクーデター政権に同首相が内務大臣として参画した際に、新聞を閉鎖に追い込むなど言論弾圧に関与していたと指摘した際に語られたもので、首相側は新聞を閉鎖に追い込んだのはクーデター勢力側で自身は一切関与しておらず、むしろその新聞を復活させたのが自分であるとし、指摘を否定した上で「現在自分に対して教示しようとしている者は、当時11歳でイギリスに住んでいた」と語り同党首の質問に対して強い不快感といらだちを見せた。
サマック首相は、総選挙期間中にアピシット党首側からの党首討論開催の呼びかけを「政治家としての格」が違いすぎるとして頑なに拒絶していたのも記憶に新しい。その背景に知識・情報面で劣るパラン・プラチャーチョン党の主要な支持基盤である地方部に於ける民主党のプレゼンス増を避けるだけでなく、権威に弱い国民に己の威信を示すと共に過去の流血事件やクーデター政権への参画に関する疑惑が国民の前に提示される事を避ける狙いがあったと指摘されていた。

